ヒラメキで踊り狂う

サルのレベル

髑髏城の七人season月 上弦サーのギャルの話

 
告白します。
実は私、ずっと早乙女太一に騙されていたんです…。
 













 
という一文でこの長ったらしい文章の幕を開けますけど、別にたいしたことは言いません。なんということはない、髑髏城の七人とのファーストコンタクトがゲキシネのワカだった私は、早乙女太一さんのせいで無界屋蘭兵衛という役柄を同情に足る人物だと思い込んでいたという話です。
かわいそうだと思っていたんですよ。騙されて、恋慕と情念に囚われて、愛したものを取り戻せないまま、無念のうちに身を滅ぼしてしまった人だと思っていました。
早乙女太一さんは被害者ヅラの上手い役者さんだなあとよく思います。そんなにサンプルはないけれども、最近だと22年目の告白にしろ髑髏城にしろハイローにしろ、なんでああ、不本意にそこに立って生かされている、みたいなかおをするのが上手いんでしょう。すごい。たいがいろくなやつじゃないのに、いつも騙されて、どうにか救われてほしいと願ってしまう。
おまけに髑髏城に関しては、山本耕史中島かずきもグルでした。グルになって私を騙してきた。なんか…花髑髏は…だってしょうがないじゃん蘭兵衛にだっていろいろあるんだよみたいな…そういう戯曲を山本耕史が哀愁たっぷりに演じてきて…また騙されたんです…。
騙された。騙されてたんですよわたし。クソチョロのカモですよ。蘭兵衛詐欺の餌食でした。
そんな中で、どうしようもない勘違いを抱えたままのわたしに「お前騙されてんぞ」って横っ面ひっぱたいて現実を突きつけてくれたのが上弦蘭だったんです。
そういうわけで上弦蘭が大好きだったって話です。
 
 
 
世の中には、オタクの文法でものを見る人間とオタクの文法でものを見ない人間がいると思うんです。というかオタクの文法を持ち合わせていない人間。
例えば同じように幽遊白書の飛影を好きでも、オタクの文法を持ち合わせていない人間は多分かっこいい戦闘シーンやセリフの話をたくさんするのに対して、オタクは二言目には身長と妹の話をするでしょ。
オタクはすぐに愛せる部分を見てしまうし、肯定しようとしてしまうし、ギャップのある子として見ようとしてしまう生き物じゃないですか。一見しただけでは見えないところからキャラクター性の本質を見出そうとしてしまうんですよ。それもでき得る限り肯定的な文脈に則って。
たしかに妹を大事に思ってるところは飛影のキャラクター性の根幹ではあるけれど、他方では、口が悪くて一匹狼で強くて周りが見えないところもやっぱり飛影の大事な芯の部分なんですよ。別に上っ面ではないんです。
何の話してんだか自分でもわからなくなってきたんですけど、だからオタクってある一面ではものすごくキャラクターの全体像を捉えるのが下手だなあとよく思うんですよね。つまり私のことなんですけど。
 
 
立ち戻って私が無界屋蘭兵衛をどうして同情に足る人物だと思ってしまっていたかと考えると、ああいう立ち位置、ああいう出で立ち、ああいうルックスで同情に足るキャラクターを他にいくつも知っているからなんだと思います。
それだけでなく、儚いとか中性的とかクールだとか、いまワカを見直すととんだ勘違いだなみたいな印象すべて、そういう「予め知っている」ものに照らし合わせて勝手に思い込んでたんですよ。これがオタク文法でものを見る病気の末期症状です。
思えばクズ、思えば外道、思えば死ぬほど自分勝手、なんて事実には気付くことさえできなかったわけです。頭が悪くて短絡的で論理的にものごとを考えられるタイプではない上にどうしようもなくオタクなので。私は。
そしてそこに、大丈夫それが正しいよ、みたいな顔して早乙女太一が立ってたんです。とんだ詐欺師ですよ。なんなら今でもどこかで鳥蘭のことは同情に足る蘭だと思ってしまっているんだからひどい話です。花蘭もだわ。
 
 
ところで、このオタクの文法でものを見る人間同士の間にも解釈違いというものが多分に存在するんですが、そんな隙間、その文脈を持たない人間との間にある明確な断絶にはとうてい及びません。
本当に見えている世界が違う。ひとつとして同じものが見えていない。そう思わされた存在が三浦翔平さんの蘭兵衛でした。
だからツイッターでずっと彼のことをウェイのイケメンって言ってたんですけど。ウェイのイケメンなんですよ。ウェイのイケメンにオタクの見てる世界は見えないわけ。めちゃくちゃ当たり前。こちら側に歩み寄ってくれないどころかそこに溝があることに気付いてすらくれないんです。
加えて下弦(特に序盤)が、なんというかその、オタクとオタクでない人間の間にある溝を初めから理解していて、そこを丁寧に埋めてセメントで固めて平らな地面にして助走つけて全速力でこちら側に走り寄ってくるみたいな蘭だったじゃないですか。
もうその蘭見たことある。オタクであるわたしの頭の中で見たことある。みたいな蘭だったんですよ。これは個人の感想なんですけどわたしはそう思ったんです。全力の称賛です。それもまた個性だし、ヴィランとしてあまりにもヴィラン然としていた鈴木天魔王とともに、2.5の人たちの鋭さってこういうところだよなあと思いす。見る方の頭の中にある理想と欲望を汲み取るのが本当に上手い。そこから後期に入って少しずつ我を出していく過程も含めておもしろかったです。
1月末あたりかな、ひろきさんのオタクの友人が「鈴木拡樹ほんとにいた?って感想よく見かけるけど私はむしろ初めて板の上で鈴木拡樹を見れた気がする」みたいなこと言ってたのがとても記憶に残っています。
 
頭が悪いオタクなので話が逸れました。
つまり、あまりにもオタクと乖離した世界が見えている人の蘭が、あまりにもオタクと同じ世界を見ようとしてくれる人の蘭と隣り合わせにあったから、余計に前者がわたしには堪らなかったんですよ。完全に好みの話ですね。
オタクに見えてるものが見えてないから、中性的でもなければ儚さもないし同情の余地すらまったくないんだけど、でもオタクがそういうふうに見てしまうがために見落としていたものをたくさん見せてくれたんです。
 
 
ある意味とても理性的な人なんだと思います。ロジカルだったんですよね。蘭兵衛/蘭丸の行為から逆算して作った人格、みたいだったんですけど、でも別に、本人は奇をてらったつもりも新しい蘭兵衛像を提示するつもりもなかったと思うんですよ。「わりとヤンキー」(すが様談)であること以外、見たまま感じたままの蘭を本人なりに解釈してやったんだと思います。
いや知らんけど。演者本人どころかファンでもないのでなんにも分からないですけど。観劇初日に感じたことはそれでした。ああ、ウェイのイケメンには無界屋蘭兵衛ってこういうふうに見えてんのか…っていうのが一番の感想だったんですよ。
 
で、それが、オタサーにギャルが入ってきちゃった、みたいな新鮮さだったんです。
 
オタサーの姫」って、モテない男だらけの中に一人だけ女の子がいる、というだけで成立するものではけっしてないと思うんです。アニメが好きな男性たちと同じ鑑賞経験を持って、「かわいい女の子」に対する価値観を同じくして、いや現実にそんな女いるか!?みたいなフリフリの服とかニーハイとかを身につけて、黒髪のロングで染めないで、言動ははわわはわわしてて、まったく垢抜けてはいないけどアニメの中の女の子的ではあるんですよ。意識的にしろ無意識的にしろ、少なくともオタサーの男たちの価値観には添ってるんだと思うんです。
これまでの蘭兵衛がそんな感じ(日本語が不自由すぎてこれ以上説明できないのでフィーリングでわかってほしい)(悪し様に言っているわけではないので怒らないでほしい)だとしたら、三浦蘭兵衛はほんと、いやそんなもん知るかみたいな顔で乗り込んできたギャルだったんですよ。なんでこんなとこに来ちゃったの!?ってくらい垢抜けてるし一切はわわしないしニーハイとか絶対はかないし黒のオフショルトップスのド金髪だしネイルゴリゴリだし肌も健康的に黒いし。ちなみに花蘭は人数が足りず存続の危機に陥ったオタサーにむりやり入らされた剣道部部長でした。鳥蘭はオタサーの姫っていうか飲みサーの姫。全部概念の話です。
 
 
オタサーのぼく「ルルーシュは過去にいろいろあって…生い立ちが…他にもいろいろつらくて…ルル…ルルーシュ…ほんとは悪い子じゃないんだよ…」
これまでの蘭「わかる、ルルーシュはいい子。ほんとはいい子。」
三浦蘭「いやいくら生い立ちがつらくても他人を巻き込んじゃダメでしょ。そいつは悪人」
みたいな蘭兵衛でした。情緒はないけど正しかった。ど正論でとても論理的に蘭兵衛を説明された気がしたんです。いやルルーシュいまなんにも関係ないな。
蘭兵衛がどうしようもない外道で自分勝手で最低な男で、その上で愛おしいと思える存在であることを提示されてしまった。ウェイメンタルとあの…あの顔面をもってして…。
再三主張しますけど、別に間違いではないと思うんですよ、そういうアプローチを採ることも、そういうふうに人物像を捉えることも。特に上弦は天が情緒的(なんていうかわいいものじゃないけど)だったので。外道は外道でしょ、という潔すぎる捉え方が大好きでした。
下弦のちゃんともさんが蘭兵衛を愛して寄り添って共に生きると日々高らかに謳うなか、上弦はこの人絶対蘭兵衛のこと別に好きじゃないだろうなあ、と毎日思っていました。お世話になった人を裏切るとかまじありえねえ理解できねえの世界の人、だろうなあ。勝手な想像ですけど。愛さないから擁護しようのない外道にできるのだと思うんですよ。
そういうところも含めて、私はオタサーのギャルが好きだ。
オタサーのギャル、セクゾサーの風磨くん、娘。サーのミキティやれいな、Buono!サーのみやびちゃん、J=Jサーのかなとも、そういうものが好きなんですよ。真っ当なアイドルたちの中じゃあきらかに浮いている瞬間があっても、意外と仕事はきっちりやるし、役不足なんてことはまったくないんですよね。彼ら/彼女たちを推すっていうより、そういう歪な存在を自然に内包できるエンタメ空間が好きなんです。ドルオタにしか分からないこと言ってごめんなさい。
髑髏サーの三浦、というか上弦の月自体もそういう存在で、だからものすごく大好きでした。月ドクロの存在のおかげでもはやドクロイヤー自体がめちゃめちゃ好きになってしまった。実はもともと特にお祭り気分ではなかったんですよ。なんだかんだ全部観たけど。
  
 
 
 
そもそもね、演劇って見る側も作る側も大半がオタクなんですよ。ここまでなんだアニオタだかドルオタだかの自分語りか関係ないなと思って読んでたそこのお前、違いますから。お前もオタクだから。主語を広く取っているつもりはないので同意されなくても構わないんですけど、少なくとも自分がオタクであることは自認して。髑髏城なんて好きこのんで観に行ってあまつさえこんな辺境の文に辿り着いてしまう人間、ひとり残らずオタクだからね。閉鎖的な世界で特定の大衆文化に熱を上げている人間は漏れなくオタクですよ。
演劇って、演劇を観たことがないとわかんない表現、ってのが多いエンタメなんですよね。架空の空間を視覚的に表現するエンタメの中では、多分最も制約が多いから。だから隣接する他のエンタメと比べて間口が狭いんだと思います。
その中では新感線は間口を広く、演劇オタク以外に向けて設けている方です。観劇習慣のない人を呼び込もうとする姿勢は2.5に立ち位置が近くて、だから大型商業演劇の中で2.5俳優にいち早く接近するのも分かるんです。ただそれでも、やっぱり作り手は基本的に熟練の演劇オタクがほとんどなんだろうと思います。
そんな狭い世界で作り手も受け手も同じように経験を積んでコンセンサスを取っていた場所、すなわち髑髏サーに、演技経験はそれなりにある演劇の素人、みたいなのが紛れ込んだのが上弦でした。しかも2人も。演劇オタクのお約束も常識だと思ってたものもなんにもわかんない、オタサーの男どもと姫との間に共通するアニメ経験をほぼ持ち合わせていない、けどやることは一応ちゃんとやってくれる、オタサーの園児捨とオタサーのギャル蘭です。
 
そういうものっていまきっと新感線くらいしか作れないじゃないですか。映像で売れっ子の演劇素人をメインに連れてきて、ちゃんと楽しく観れるレベルの演劇作品に仕上げる時点でそうそうできることじゃないです。その上で個性を出せる土壌を用意するってすごいことですよ。おまけに3ヶ月もあったから、十分に変化と成長ができたし。加えてちゃんとおもしろい。そう、髑髏城は戯曲と演出がおもしろい
もともとがおもしろいから、予想外の方向から飛んできた捨天蘭もちゃんとおもしろかったんです。
 
 
そういうわけで、一度オタクになってしまった自分には絶対に見ることのできない世界、ギャルの視点から見るオタ向けアニメを提示される、みたいな体験を逃したくなかったんです。ウェイのイケメンの視点から見る髑髏城、もとい無界屋蘭兵衛のことです。
すごいおもしろかったんですよ。もう絶対に見れないはずだった世界が見れる、ということが。多分、最初はそんな理由でズブズブハマって、狂ったように豊洲に通うようになったんだと思います。
そんなことのために自担のはじめての外部舞台や卒論(ガチの方)や学生生活最後のテストやレポート(なんとクズすぎて卒業要件単位が後期で20近く残ってた)や口頭試問と並行して通い続けた。気付いたら半券が上下合わせて24枚ありました。楽しかったです。
 
 
 
 
振り返ってみると、上弦蘭、ほんとうに人間らしい蘭でした。公演中はめちゃくちゃ野生どうぶつとか言ってたけどそれは素直さの話であって、彼は人外ではなかったし、地に足が着いていたし、とても人間らしかったと思います。蘭兵衛/蘭丸を人間としてちゃんと説明してくれました。
っていうか、蘭兵衛/蘭丸っていう表記についても違和感があって、二幕でそこまで豹変したようには感じられなかったんです。いや豹変はしてるけど、してるんだけど、一人の人間の態度の変化としてギリギリ咀嚼できる範囲から一度もはみ出さなかった、と思います。押し込めていた衝動が解き放たれた、であって、それでも完全にひと続きの、一人の人間だったのではないかな。
蘭兵衛は抑圧された蘭丸であり、蘭丸は幼い日の蘭兵衛だったんですよ。人格が2つあるどころか二面性という概念すらあまり当てはまらない、ほんとうに同じ人だったような気がします。同じ人が、縋るものを変えただけ。改宗しただけ。
だから余計に外道でした。自分の中にある自分ではない何か、と戦うことをしなかったから。だって自分の中には自分しかいないから、誰よりも早く陥落するクソチョロ蘭だし、すべて自らの意志でとった行動であり、選択であり、その罪をちゃんと自覚していたんですよ。
全ての髑髏城の全ての役柄にお前がナンバーワンだポイントがありますが、「所詮、外道だ」界のナンバーワンはおそらく三浦蘭だったと思います。外道として誇りを持ってほしい。所詮外道であり、所詮外道であることをちゃんと認識しているの、ほんとうに苦しくて潔くて最高だった。最高…お前が最高だよ…。
 
 
多分、ウェイのイケメンだから、ワカでも花でも鳥でも、森蘭丸衆道なんて考えなかったんでしょうね。ウェイのイケメンだからね。愛に狂ってしまうなんて印象は1ミリも抱かず、優しすぎる人なんて微塵も思わず、じゃあそういう人の目に映る蘭の求めたものは何かって考えたら、そりゃそうなるよね。殿とともに戦場を駆けたあの日々だよね。ウェイのイケメンだからね。20そこそこで健たちと渋谷でウェイウェイ飲み歩いた若い頃、楽しかったよね。そしてやっぱり、それでもちゃんと蘭という役柄を説明できるんですよね。ただのウェイのイケメンではなかった。
何度も書きますけど、理性的なんですよ、ほんとうに。ロジカルに蘭像を組み立てた上で、周りを見て足し引きを繰り返して、衝動的な捨と本能的な天との間でちゃんとバランスを取って存在してたんですよ。あんな…チートヒーローと怪獣に囲まれて…、ちょっと若い頃ヤンチャしてただけの人間ががんばって生きていた。
千秋楽付近の最終ブロックも、なんだか襲撃の様子がだいぶ違ってしんどかったけど、やっぱり地続きの蘭だったんです。一幕無界でよく笑う。無界にあれだけこころを許していたら、そりゃあ斬るのは苦痛だよね。蘭丸は蘭兵衛で蘭兵衛は蘭丸ですからね。
そもそも上弦天が騙すというより感情を揺さぶって人心を惑わすタイプの天魔王で、上弦蘭って、殿と殿の望んだものと殿と過ごしたあの日々とを切望する天の感情に、騙されたというより共鳴してしまった節があるじゃないですか。少なくとも私はずっとあると思ってたんですけど。そういう蘭が、最終ブロックの悲痛すぎる捨の問いかけに揺さぶられないわけがないし、そこで揺さぶられたが最後、平気な顔して無界を襲撃できるわけもないんですよ。そうやって周りにチャンネルを合わせて、その上で蘭自身の人物像に矛盾が起こらないようにした結果が最終形態蘭だと認識したんですけど、実際のところは知りません。うん、知らんけど。最後に知らんけどをつければ何を言っても許されると聞いたので付け足しました。
ただ私は最終蘭、ものすごく好きでした。オタサーのギャル、最後にオタクに少しだけ理解を示した。ルルーシュ悪いやつだけど…気持ちは分からないこともない…でもやっぱり虐殺は許されないっしょ…という絶妙なラインで同情を示した。示した上で、それでもちゃんと最後まで外道である認識を貫き通した。それだけでオタクめちゃめちゃに感動してしまった。ぼく…オタサーのギャル…大好きだ…。
 
 
 
ロジカルな蘭だった、という意味で、もう一つ。ずーっとウェイのイケメン呼ばわりしてきたけど、実際の中の人はすごく理性的なんだなあと思った部分は他にもありました。
上弦蘭、ある一箇所のお芝居だけが突然変わる、ってことがあまりなかったんですよね。
公演期間を通してじわじわと人格は変わっていったけど、どこかのお芝居を変えるときには他の全部をちょっとずつ微調整して変えるんですよ。二幕の「あの世に行くときでさえ殿は〜」を少し上ずった声で言う、そのためだけに一幕全部が微妙に気だるい演じ方になったりするんです。
一幕、なんかいつもとなんとなく、なんかちょっと違うなあと思ったら、だいたい二幕でどっか大きな変更が入ってるんですよ。それが自主的な変化にしろいのうえさんによる演出変更にしろ、細かい変更にも伏線張らなきゃ気が済まないんだな、というのがとにもかくにも新鮮でした。終盤はもう一幕の時点で今日の二幕なんかやばいの来るぞってのが予見できるようになってきてた。バレてる。かわいい。
これも役者さん本人でもなければファンでもない人間の勝手な妄言ですけど、多分、論理的に説明できないことはやれないタイプなんだろうなあと思います。
私はそんなに観劇趣味ってわけでもないし見識も浅いので、というかもっと狭いオタク向け(ジャニーズ舞台とか)以外の舞台に複数回通うことってあまりないので、舞台であそこまで一貫性を意識する人を初めて見たんです。板の上に立っている相手のお芝居が変わればそれに呼応して自分も変えるし、そこを変えたせいで矛盾を生まないためにその後の全部のシーンが微妙に変わってしまう、みたいな、安定感があるんだかないんだかさっぱり分からない姿がめちゃくちゃ新鮮でした。
 
そのせいで日によってなんか蘭兵衛の人格が全然違う、みたいな事故も起こるんですけど、その日の一本のお芝居の中にほとんど矛盾が生まれないんですよ。ある日突然コロスコロス言い始めてそこに生まれた余白を後から埋めていく、みたいなちゃんともさんのやり方とは真逆すぎて、上下の蘭はほんとうに何もかもが逆さますぎてそういう意味でもめっちゃ愉快。 
上下捨の0番力が前田敦子大島優子とか安倍なつみ後藤真希(ラブマ期)みたいな差だとしたら、上下蘭はふまけんとかさやみるとかみやももとかともかりんとか、そういう種類の、真逆すぎる人たちに見えた。別にシンメではないですけど。月ドクロにおけるシンメは天蘭と捨霧なので。
オタクってすぐ自分の馴染みのあるジャンルに例えてそれ以外の人に伝わらないこと言い出すから。ごめんなさいね。
 
 
ところで、リピーターの存在を意識する/しない学級会ってほぼすべての舞台で誰かが議題を投げかけてるのを見る気がするし、私自身は別にどっちでもいいんですけど、個人的には三浦蘭みたいなやり方、一切リピーターの存在を意識していない人のやり方だと思います。
3ヶ月全体を通しての一貫性よりその日のその公演における一貫性を重視する、っていう姿勢は、ほんとうに、リピーターを意識しないどころか存在を認識してすらいない、好き好んで同じ舞台を何回も見るような「オタク」という生き物と一度もエンカウントせずに生きてきたウェイのイケメン映像俳優様の所業、だと感じていたし、そういうのも、わたしはすごく好きでした。
意識しないようにすることと意識しないことは違うんですよ。認識していない、っていう絶対的な断絶は、認識するまでしか機能しないんです。そういう、たくさんの経験を積んだ舞台人には絶対に取り戻せない初期段階にいる人たちを、豊洲の荒野で見ていたんです。
一度好きだと思ってしまったら基本的に何やっても好きなんで、リピーターのことめちゃくちゃ意識されてもそれはそれで好きだったと思いますけど。
でもそういうスタンスの人、そういう人が複数いると、ああも毎日違うものが出来上がるんですね。ほんとうに振れ幅がすごい座組でした。あっちいったりこっちいったり、今日は勝ったのに明後日は負けたり。それを定価13000円の興行としてどうなんだと言われたら、そうだね、としか言いようがないけど。でもやっぱり私は好きだったんです。だってこんなもん、そうそうお目にかかれないじゃないですか。
見てる世界が死ぬほど違うんですよ。お約束とか全然通じないし、違いすぎて全部が意味わからなくて、でも上弦の蘭のことは結構ちゃんと分かるので、全部が新鮮だったんです。もうこの一文だけでも支離滅裂で意味わかんないでしょ。ただでさえ頭悪いのに髑髏城はオタクの論理的思考を奪うので。論理的思考ってなんだっけ。矛盾のない文章とは???矛盾のない人物造形とは???
もう何もわからない…こまった…。
 
 
私は普段アイドルを追いかけていて、アイドルって人の人生を追いかけるようなもんで、一つの舞台、一つのコンサートは基本的に通過点なんです。だからそこを切り取って突き詰めようという意識がもともとないんですけど、オタサーのギャルがオタサーのギャルでいれるのって多分最初の数ヶ月だけじゃないですか。その後はオタサーから離れるかオタクに染まるかどっちかだから。
だから今回くらいは書き留めておくかなーと思ってたんですけど、もうすぐ1万字なんですね。まだ蘭の話しかしてないのに。いやほんと、これどうやって終わるの。
髑髏サーの園児ふくし捨や髑髏サーの暴れ姫たいち天やおれたちのスーパーヒーローひらきりちゃんや心の恋人すが兵庫や、あとはとにかく花鳥風上下太夫が大好きだった話とか、残しておきたいこといっぱいあるんですよ。あるんですけど現実は厳しい…。
 





月ドクロ、すごく苦しかったけどとても楽しかったので。





 
楽しかったなあ。楽しかったですね。